東京国分寺ロータリークラブ
多摩中グループ 国際ロータリー第2750地区

第2601回 例会報告(4月20日)

2021年4月28日

第2601 回(4月20日)

会場:多摩信用金庫国分寺支店3階

本日の司会:田中将太郎SAA委員

会長の時間:藤岡会長


 みなさん、あらためまして、こんにちは。本日の澤田明宏会員並びに荒井大介会員のイニシエーションスピーチ、楽しみにしております。
 さて、前々回の例会で、6つの重点分野に今年度から新たに加わりました「環境の保全」に関連して、4月22日が地球の日(アースデイ)であることをお話ししました。本日は「環境の保全」の具体的な行動につながる食品ロス・食品廃棄の削減についての理解を深めていただくためにこれらの用語「食品ロス」と「食品廃棄」についてお話しします。「食品ロス」と「食品廃棄」に違いはあるのでしょうか? また、その違いがあれば、それは何でしょうか?皆様はどのように考えられているでしょうか?
農林水産省、消費者庁、及び環境省のホームページを調べてみましたが、「食品ロス」と「食品廃棄」を明確に区別した説明はありませんでした。これらの行政機関で「食品ロス」は、本来食べられるにもかかわらず捨てられる食品と説明されています。これは2019年10月に施行された法律、「食品ロスの削減の推進に関する法律」の第二条第2項に『食品ロスの削減」とはまだ食べることができる食品が廃棄されないようにするための社会的な取組をいう』と定義されています。諸外国特に欧米では「国連食糧農業機関(FAO)」による定義に基づいて「食品ロス」と「食品廃棄」は明確に区別されています。2011年にFAOが主催した国際会議「SAVE FOOD」のための研究報告の中で「食品ロス(Food Loss)」及び「食品廃棄(Food Waste)」を次のように規定されています。『「食料のロス」は、人の消費に向けられる食料を特定的に扱うサプライチェーンの各段階における食料の量的減少を意味する。特に、食料のロスは、フードサプライチェーンの生産、ポストハーベスト(収穫後の取扱:調製、輸送、貯蔵など)及び加工段階で発生する。フードチェーンの最終段階(小売及び最終的な消費)で発生する食料のロスは、”食料の廃棄”と呼ぶほうが適当であり、それは小売業者と消費者の習慣に関係している。』 これは直観的に理解しにくい説明です。生産現場から消費までの流れを簡単に言うと「生産現場・(流通)・製造/加工・流通・小売り・消費」です。日本でいう「食品ロス」は生産現場から消費段階までを対象としています。欧米では「Food loss(食品ロス)」は生産現場から小売り手前の流通までであり、「Food Waste(食品廃棄)」は小売から消費段階までが対象となります。例えば、生産現場・加工段階で規格外の野菜を捨てることは、「Food loss(食品ロス)」。小売店で賞味期限を過ぎた食品を捨てるのは「Food waste(食品廃棄)」となります。この様に用語の使い方が少し異なっていますので、皆様が世界的な食糧問題で海外のロータリアンと話す機会にはこの違いに気を付けてください。

◇表彰式

・会員増強賞:照木会員

幹事報告:岡田幹事


【4月例会予定】
20日(火)イニシエーションスピーチ 澤田 明宏会員 荒井 大介会員
27日(火)クラブ協議会(55周年記念式典)役割分担の確認・タイムスケジュールの確認等実務確認
*来週27日に行うクラブ協議会は55周年式典の実務等の確認となります。各々が担当する役割の確認やタイムスケジュール等会員全員がご確認頂き、ご負担いただく場面が増えると考えますので、ご出席宜しくお願い致します。また、55周年記念式典は緊急事態宣言が発出されたとしても、万全のコロナウィスル感染予防措置を行い、実施されます。当クラブに於いてクラスターが発生しない限り、中止はございませんので、皆様体調には留意頂きご参加お願い致します。服装はクールビズ期間ですが、スーツ着用、ネクタイ着用です。飲食はありません。クラブ会員のみの参加となります。最後に、本日は新会員の澤田明宏会員、荒井大介会員のイニシエーションスピーチとなります。楽しみにしております。

委員会報告

出席報告:奈須委員


会員数:37名 出席免除会員:4名 メーキャップ済:0名 欠席:6名 出席率:81.8%
※理事会にて、コロナ禍特別措置により6月末までメーキャップ済み対応とする事が決議されました。
出席率:100%
≪前々回の訂正≫なし

ニコニコボックス:奈須委員

藤岡会長・岡田幹事:澤田明宏会員並びに荒井大介会員の楽しいイニシエーションスピーチにニコニコします。飯沼会員:先日は妻に誕生プレゼントありがとうございました。妻がニコニコしていましたのでニコニコします。照木会員:先週のNHK‘ためしてガッテン’に私のバンドの大学先輩が出演。ドラムと豆腐が共演しました。昔はドラムスコ、今は日本豆腐協会専務理事。明日の再放送でニコニコです。井口会員:お花ありがとうございます。本日のイニシエーションスピーチ楽しみにしています。(^o^)

イニシエーションスピーチ

◇澤田 明宏会員


 三菱UFJ銀行国分寺支店長を本年1月より務めています。この度は前任の尾澤を引き継ぐ形で、先月23日に入会を致しました。改めてここにいらっしゃる皆様に温かく迎え入れて頂きましたことに、深く感謝申し上げます。私は、1976年生まれの44歳で社会人生活は20年余りとなります。同居家族は配偶者と3人の娘で、男性が自分のみですが、適度な距離感で接せられており、居心地はよいと感じています。生まれは愛知県半田市ですが、県内の大府市・知立市・豊田市と移り、最後の豊田市にて小学生時代を過ごしました。その後、父の海外赴任に伴い、家族でマレーシアの首都クアラルンプールに居を移し、日本人学校の中学部に通いました。マレー語はもちろんのこと、公用語の英語はほとんど上達しませんでした。日本人学校には高校がなく、また英語がネイティブのインターナショナルスクールへの進学も難しいので、家族と離れ、早稲田大学本庄高等学院に入学しました。100%大学進学が可能でしたので、ゲームや音楽などを楽しみ、早稲田大学政治経済学部経済学部に入学しました。大学では学業に注力した学生生活でした。必要単位の1.5倍となる200以上の単位取得、所属行政学ゼミでは幹事長就任、所属速記サークルでは渉外幹事に就任し全国大会の企画運営、所属学術サークル政治経済攻究会では、同世代で哲学者として活躍中の国分功一郎さんや白井聡さんを始めとする同世代の学生と共に古典や学術書の精読を行ったりしておりました。
 比較的充実した大学生を終え、1999年に当時の東京三菱銀行に入行しました。約20年のキャリアですが法人のお客様への営業と企画管理営業の業務が概ね半々です。初任地は日本橋支店で銀行員の基礎を学び、続いて神戸支店で独り立ちして営業を行いました。次の海支店では、語学研修を経て、外髙橋保税区という特殊地域在籍企業を担当し、途中2006年にUFJ銀行と合併して三菱東京UFJ銀行となったのですが、そのタイミングで支店企画管理業務へ移り、行政当局及び本部との折衝・報告や600名を超える店舗の運営基盤構築等を行いました。帰国して着任した青山支店では、主にアパレルや外資系企業を担当し、その次は京都支店のお客様である大日本スクリーン製造(現SCREEN HD)へ出向勤務となりました。こちらでは銀行の足るところ、足らないところを学ぶ良い機会でした。出向から戻ってきて着任したのが丸の内本社の法人企画部という場所で、法人のお客様を担当する事業部門全体の評価や処遇の運営を主に行いました。新橋支店の勤務では課長職で着任し、主に運輸業と卸売業のお客様を担当しました。その次が拠点部(名古屋)という中部地区の本部組織に赴任し、50程度の支店運営サポートをしておりました。ここでコロナの第一波到来直前のタイミングで弊行初の感染者が発生し、会社の中で対処方法が確立してきない時期であり、正に24時間体制で対応を行った結果、お客様への2次感染と行内でのクラスター化を防ぎつつ、店舗営業を続けることができたのが印象的です。
 そして現在の国分寺支店に着任となるわけですが、お気づきの通りに、転居が多く、結局最も長く住んだのが小学生のときの豊田市での5年半という「地元」無き人生です。今の場所こそが地元という想いでいますので東京国分寺RCで地域に貢献できるよう精一杯努力して参りますので、今後一層のご指導を賜りたく、よろしくお願い申し上げます。

◇荒井 大介会員


 昭和44年生まれの51歳です。現在、本町にあります「タツミ建設株式会社」で代表を務めさせて頂いております。創業は昭和45年、私が1歳の時に父が起業しました。両親は多忙で、季節ごとの長期休暇もどこにも連れて
行ってもらえず、記憶にあるのは独身社員さんに連れて行って頂いた海水浴やタツミ建設の社員旅行です。そんな幼少期でしたが、国分寺市立第七小学校を経て、国分寺市立第二中学校に入学しました。中学2年の頃に生徒会副会長に立候補しました。しかし、年子の弟が1年生で、副会長に立候補したのです。結果は1位当選、弟。2位当選、私。世にも珍しい兄弟副会長に、父には弟よりも立場が上の会長になぜ立候補しないと怒られたものです。 高校は都立小平高校に入学しました。不真面目な高校生活でしたから大学受験は全て失敗。卒業後の予備校でも勉強せず、大学は全滅でした。その時に同じく全滅だった同級生がデザインの専門学校に行くというので、デザイナーってカッコイイかもという安易な考えから東京デザイナー学院という専門学校に進学しました。 そして2年後の社会に出る頃にはバブル経済はなりを潜め、広告業界は早くも就職氷河期でしたが、『素直そうだったから』という理由で拾ってくれる会社がありました。25歳の頃、関口さんと飲みに行くことになり、関口さんの『お前が会社に戻って来ないとダメなんだ!』と言う熱意に押され、26歳でタツミ建設に入社しました。仕事以外にも商店街活動や国分寺青年会議所など地域活動に力を入れてきました。今後は、培ってきたキャリアを活かし、東京国分寺RCで地域のため、世のために、微力ながら力を注いで参りたいと存じます。
 最後になりますが、私が子供の頃は父のような理不尽な大人が結構いらっしゃったような気がします。世の中には変わってはならない事と変わるべき事が混在しており、時代を経るごとに上手く調和して未来がカタチ造られると思うのですが、昭和の時代の理不尽な大人が絶滅寸前となってしまいました。これはこれで仕方のないことかもしれませんが、子供達にとってはいいのか、悪いのか。 青少年育成も大事な運動です。私も、父を反面教師と思い、父とは違った理不尽な大人を目指して参りたいと存じます。どうぞ宜しくお願い致します。